「農民とサムライのあいだ-江戸時代の暮らしと田無村名主・下田半兵衛-」

  • 掲載日2022年10月9日

西東京市の歴史を学術的に研究した行田健晃さんが、江戸時代の暮らしと田無村名主・下田半兵衛に関する文書をまとめてくださいました。
 

「農民とサムライのあいだ-江戸時代の暮らしと田無村名主・下田半兵衛-」
                              講演者・文責 行田 健晃

下田半兵衛という人物を知っていますか?

皆さんは、かつて江戸時代、現在の西東京市が田無村と上保谷村、下保谷村、上保谷新田の四つの村に分かれていたころに田無村で村人たちのリーダーを務めた下田半兵衛という人物を知っていますか。皆さんの中には小学校でその人について勉強した、という人もいるようですね。

彼が村のために自らの財産を投じて作った様々なものが、現在の西東京市に文化財として残っています。

村のために尽力した下田半兵衛。その背後にはどのような考えがあったのでしょうか。そして、彼にそのような行動を選ばせた江戸時代の社会はどのようなものだったのでしょうか。

下田半兵衛(富永・富宅)の事績と「村人たちのリーダー」

下田半兵衛という名は、18世紀の後半以降に田無村のリーダーである「名主(なぬし)」と呼ばれる職を務めた下田家の当主についたものです。いつの時代にも常に「半兵衛」と呼ばれていたため、実際には名主として文書上に登場する人物は全部で四人いました(時期の早い順に富永(とみなが)、富宅(とみいえ)、富潤(とみひろ)、富栄(とみひで))。


下田半兵衛富宅の木造(附 厨子)市指定文化財9号

それぞれが村のために尽くしましたが、特に富永と富宅の功績は今でも西東京市の文化財としてその姿をとどめています。

富永は村の食料不足に備えるために、村で多くとれる雑穀である稗(ひえ)を入れる「稗倉」を立て、裕福な村人たちと協力し稗500石(約75トン)を詰めました。富宅は村の鎮守(田無神社)の再建に尽力したり、換金して老齢の者や貧しい者に施すための作物を作る「養老畑」という畑を作ったりしました。

これらについて最も重要なポイントは、これらの事業が下田半兵衛家の私財を投じて行われたという点です。なぜ半兵衛は自分の財産を投げうってまで村に尽力したのでしょうか。

その答えは、そもそも江戸時代の村がそのような形で回る仕組みになっていた、ということに尽きます。江戸時代は武士・農民・町人に身分が分かれる「身分社会」でしたが、人口の8割以上を農民が占めるのに対し、武士はたったの6%に過ぎず、また農民が村に住むのに対し、武士は町に集められていましたので、とても武士がすべてを見ることはできません。そこで、江戸時代の村は何か問題が起きても自分たちで問題に気づき、ある程度まで対応できる仕組みが作られることになったのです。

その最たるものが「五人組」です。学校の教科書では互いに監視をさせたり、年貢を納める共同責任を負わせたりする仕組みだと説明されます。その説明は正しいものですが、年貢に関する話は、村人の側からは「誰かが年貢を払えなくなったときは、他の誰かが助けてくれる」と捉えることもできます。現在よりも生活の不安定な江戸時代において、この仕組みは村人にもある程度メリットのあるものだったのです。

しかし、この仕組みでカバーできる範囲には限界があります。実はこのカバーしきれない部分を補うために置かれた役職が名主だったのです。ですから、名主になる人物は財産に余裕がある必要があり、また同時に村がピンチになったときにまじめに働く人物である必要がありました。

下田半兵衛が村のために力を注いだ背景には、村人たちによる、自分たちの生活を救ってくれる名主への大きな期待があった、ということがいえるでしょう。

名主のもう一つの顔

しかし一方で、名主は武士の支配をスムーズに行うための「連絡役」も担っていました。村の年貢をまとめて武士におさめたり、武士の命令を村人に伝えたりすることも、彼らの仕事だったのです。

したがって、名主は文字を書いたり、計算をしたりすることが得意でなければなりませんでした。また、このような仕事をしている関係で、名主の中には武士との強いつながりを持つものがあらわれました。特に下田半兵衛は田無村のみならず周辺の村のリーダーでもあった関係から、さまざまな武士とつながりを持っていました。

では、彼らは武士とのつながりについてどのように考えていたのでしょうか。そのことがわかる事例を紹介しましょう。

下田半兵衛がつながりを持った武士として、一橋徳川家がいます。一橋徳川家は八代将軍徳川吉宗の子が興した家の一つです。下田半兵衛家は寛保元年(1741)より一橋徳川家の正月には門松を納め、また飾り付けを行うことを仕事としていました。

しかし、それからおよそ100年後、天保の改革によって武士の生活に節約が求められるようになると、この門松の飾りが簡単なものに変わってしまいました。門松に使う竹や松の費用は下田半兵衛が出しているため、飾りが簡単になれば負担は軽くなって半兵衛にとっては都合がよいはずですが、半兵衛はなんと、「飾りの量を元に戻してほしい」という願い書きを一橋家に出したのです。なぜなのでしょうか。

 
『乍恐以書付奉願上候(御省略ニ付松飾御用勤方窺)』(弘化2年11月2日)/冒頭

文書を読むと、そこには半兵衛はこの門松を飾る仕事を「武士とつながっている特別な家」であることを周囲の村人たちにアピールする機会だと考えていることが書かれています。飾りが簡単になると、半兵衛の生活に余裕がなくなってしまったのかと周りに不審がられてしまうために、飾りの量を元に戻すように願い出ているのです。

では、半兵衛はなぜこのように考えたのでしょうか。それには、やはり名主と村人の関係がありました。名主は法律などによって任期や立場が決まっているわけではなく、村人たちの合意によってなる人が決められていました。したがって、名主の役割を十分に果たせていない、と思う村人たちが増えれば、それを代えようとする動き(これを「村方騒動」といいます)が起きる可能性が高まります。

半兵衛は、村方騒動が起きないように、「自分は他の村人たちとは違う、特別な存在である」「村を助けるだけの余裕がある」ということを常にアピールする必要があったのです。

下田半兵衛の行動は、「村人たちのリーダー」と「武士との連絡役」という、当時の名主が持つ「二つの顔」に大きく影響されていました。下田半兵衛はその意味で「農民とサムライのあいだ」に立つ存在だったといえるでしょう。

ジレンマに陥る下田半兵衛とその決断-御門訴事件-

ところが、名主がこの二つの側面を持っていることが、のちに大きな問題となってしまいます。

ときは明治2年(1869)、江戸時代が終わり明治時代になってすぐのことです。田無村は新しく置かれた品川県という県の中に入りました。新しい時代に入り支配の枠組みが変わりましたが、明治に入ってすぐのこの時期では、名主の仕事はそう変わりません。下田半兵衛家はこの時期、父・富潤が武士との連絡役を務め、子・富栄が名主として村人たちのリーダーを務めていました。そんな折、武蔵野の地に事件が起きるのです。

「御門訴事件」と呼ばれるその事件の発端は、当時の品川県知事・古賀定雄が多摩で食べ物が取れない状況を見て村人たちに食べ物を蓄えさせる「社倉」の制度を作ったことに始まります。

もともと田無村に「稗倉」という似た仕組みがあったことはすでに述べましたが、この社倉制度は貧しい村人にも負担を強いるものであったことから、村人たちの大きな反発にあい、武蔵野にある、田無村を含んだ13か村がまとまって抗議行動を行おうとします。もちろんその中心は田無村であり、そのリーダーは下田半兵衛が務めるはずだと誰もが考えていました。

ところが、この抗議に県知事が真っ向から対決する姿勢を見せると、下田半兵衛家は大きなジレンマに直面しました。役人と村人が対立しているこの状況では、「村人たちのリーダー」の役割を果たすためには役人に抗議する必要があり、「武士の連絡役」の役割を果たせません。逆に「武士の連絡役」の役割を果たそうとすれば、県知事の要求に従わなければならず、「村人たちのリーダー」としての役割を果たせません。

さらに致命的なことに、この直前、下田半兵衛は何らかの問題で役人から名主の座を降ろされていました。ここで役人と対決すると、名主に二度と戻れない可能性が高まります。

結局下田家は、役人の側につくことを選択しました。田無村(田無新田)はこの抗議行動から脱落し、残る12か村による訴えは最後にはなんとか聞き届けられたものの、その過程で役人に傷つけられたり、逮捕されて牢屋に入れられたり、亡くなってしまう人まで出てしまう大変な事件へと発展してしまいました。

一方、下田半兵衛は最終的に名主に復帰することになったため、この事件を境に下田半兵衛と周囲の村の村人との間には大きな溝ができてしまったのです。

たしかに、やったことだけを見れば最も大事な場面で半兵衛が「村人のリーダー」の役割を放棄したことに対する周囲の村人たちのショックは察してあまりあるものがあります。しかし、ここに江戸時代以来の名主の役割というものを重ねてみたとき、半兵衛の決断は決して簡単なものではなく、苦渋に満ちたものであっただろうと考えられるのです。

古文書を通して歴史を学ぶことの意義

このように、地域の古文書に触れ、読み解くという作業は、現象や事件の様子のみならず、その裏にある人々の「声」を拾うことにつながります。古文書を通して歴史を学ぶことの意義はきっとそこにあるのだろうと、私は考えています。

参考文献一覧

講演会詳細

テーマ:子どものための地域を知る講演会「農民とサムライのあいだ-江戸時代の暮らしと田無村名主・下田半兵衛」
日時:令和4年8月21日(日)午後2時から4時
場所:田無公民館 視聴覚室
講師:行田 健晃(ぎょうだ・たけあき)さん(講師の著作一覧
   ・成蹊中学・高等学校 専任教諭(社会科/日本史)
   ・西東京市文化財保護審議会委員
   ・歴史学会 理事

講演会当日の様子や、参加者からの質問・先生からの回答は、こちらをご覧ください。