民族学博物館
「図書館だより 第75号」に掲載した記事と同じ内容です。
2024年、日本の紙幣はすべて変わり、一万円札には、渋沢栄一(1840~1931)の肖像が採用されます。
なぜ、「にんにん西東京」でお札の話なのかと疑問に思われるかもしれませんが、昭和の保谷につながる事実があったのです。
「日本資本主義の父」と称されている渋沢栄一は、尊皇攘夷運動に傾倒するも幕臣となり、徳川慶喜の弟昭武に随行してヨーロッパ各地を訪れて先進諸国の実情を広く知り、明治維新後は、大蔵省官吏に登用され新しい国づくりに尽力しました。退官後は、「道徳経済合一説」を唱え、財界の指導者として500以上の組織の設立に関与し、教育、社会、文化事業にも力を注ぎました。
さて、その栄一の後継者となったのは孫の渋沢敬三(1896~1963)です。彼は、日本銀行総裁、幣原喜重郎内閣大蔵大臣、国際電信電話(株)社長に就任するなど、戦前戦後の日本を支えた実業家です。この敬三が、西東京市とつながりがあるのです。
敬三は実業家になる一方で、柳田國男との出会いもあり民俗学・民族学の研究をすすめ、三田の自邸内で「アチックミューゼアム(屋根裏博物館)」(後の日本常民文化研究所)を主宰して、民具の蒐集や研究の成果を刊行しました。早川孝太郎、折口信夫、宮本勢助、宮本馨太郎、宮本常一、今和次郎などの研究者が出入りし、事業への援助も行いました。
このアチックミューゼアム同人の一人に、保谷村の大地主の家に生まれ、武蔵野鉄道(現西武鉄道)の取締役となった高橋文太郎(1903~1948)がいました。文太郎は、登山趣味が引き金となり、民族調査やマタギや狩猟、信仰など山岳民俗を中心とした研究成果を残し、民具の収集と共に、『武蔵保谷村郷土資料』(1935年刊)などの著書や多くの論文を執筆しました。
1937年、文太郎は広大な敷地を提供し、現在の西東京市東町1丁目に敬三と共に「日本民族学会付属民族学研究所」を創設し、1939年には、日本初の野外博物館となる「日本民族学会付属民族学博物館」を開設しました。文太郎が収集した資料も含め、国内外の民具47,000点と民家などが展示されました。
しかし1940年、文太郎は提供した敷地の一部を引き上げ、研究員も辞めてしまいます。戦時という状況下で民族学を国策に利用しようとする動きもあったのです。
その後、1962年には民族学博物館は閉館となり、関係資料は国に寄贈され、1975年、大阪の国立民族博物館へ移管されました。敷地の一角にあった(財)民族学振興会事務所も1999年に閉鎖されました。
市民有志による「西東京市・高橋文太郎の軌跡を学ぶ会」は、こうした埋もれた事実を発掘し、その成果をまとめ、2冊の本を刊行しています。2009年11月には、この会が主体となり、後世に歴史を繋ぐため、民族学博物館発祥の地に銘文が建立され、市に寄贈されました。
写真「民族学博物館」(1961年ごろ)
参考文献
高橋文太郎の真実と民族学博物館-埋もれた国立民族学博物館前史-
渋沢敬三・高橋文太郎と民族学博物館-保谷にあった日本初の野外展示物をもつ民族学博物館-
甦る民俗映像-渋沢敬三と宮本馨太郎が撮った一九三〇年代の日本・アジア DVDブック-
屋根裏部屋の博物館-渋沢敬三没後50年 ATTIC MUSEUM-
ほか、渋沢敬三アーカイブ、公益財団法人渋沢栄一記念財団ウェブサイト等参照