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視覚障害のある方に向けたお知らせ

御門訴事件を知っていますか

御門訴事件とは

御門訴事件(ごもんそじけん)とは、明治初期に田無・保谷を含む北多摩の新田地域で農民らが起こした、時の県政に対する抗議運動のことです。

抗議の対象となったのは、明治になってこの地域を管轄した品川県が推し進めた社倉(しゃそう)政策です。これは、幕末からの全国的な凶作飢餓対策として、県下の農民全員が石高に応じて一律に米か現金を拠出し、それを品川県が管理するというものですが、従来*¹ のように村が自主的に管理できるものでなく、貧困層も拠出対象となったため、現在の小平・武蔵野・西東京(田無・保谷)市域の新田を中心とした13か村*² は、出穀免除の嘆願書を県に提出します。

県役人との交渉の末、一時は「貧困層は免除する」という妥協案を引き出しますが、県知事の古賀定雄(こがさだお)がこれを拒否し白紙撤回。その県役人も辞任させるという有様で、県との対立が明確となったために田無村は抗議運動から離脱*³ します。残された12か村は、訴願達成のために団結を誓い合い*⁴ 、再度嘆願書を提出しますが、県がこれを認めず、訴願の中心となった上保谷新田名主の平井伊左衛門(ひらいいざえもん)と関前新田名主の井口忠左衛門(いぐちちゅうざえもん)を宿預け(軟禁)*⁵ にしてしまいます。

名もなき農民らによる門訴の決行

村側は折からの妥協案の適用と軟禁された名主2名の解放を目指し、県庁への門訴*⁶ を試みます(第1回、明治2年12月28日)。交通の要衝となった田無村の八反歩(はったんぼ)(現在の田無一中付近)を出発した農民らは、田無村名主の下田半兵衛(しもだはんべえ)や県役人らの引き留めに合い、要求を伝え届けてもらうことを条件に引き返しますが、結局約束は履行されず、それどころか年明けに村役人全員が県庁に呼び出され、知事の面前で再び命令を拒否すると、皆宿預けとされてしまいました。

村に残された農民ら(役のついてない小前(こまえ))は、平井の息子虎之助(とらのすけ)と井口の息子庄司(しょうじ)を中心に、再び門訴を決行します(第2回、明治3年1月10日)。青梅街道を品川県庁(仮庁舎)のある日本橋浜町へと進んでいった農民らは途中、淀橋に高く積み上げられた大八車に行く手を阻まれますが、雑司ヶ谷へと迂回し、昌平橋を渡って夜の県庁前にたどり着きました*⁷

およそ100名の農民らが県庁門前にて嘆願し続けましたが、突然門が開くと、武装した県役人らが大砲を携えて農民たちに襲いかかりました。暗闇の中農民らは逃げ惑い、県庁前の浜町川に落ちた者も多く、逃げ損ねた51人が逮捕されました。無事村に逃げ帰った者も、拷問を伴う県の厳しい取り調べの中で逮捕され、6名の死者*⁸ を含む多くの負傷者が出ました。

結局県は門訴に関わった15名の処罰を決定しましたが、県による過酷な仕打ちを政府機関の弾正台(だんじょうだい)に訴える者もあり、後に古賀は県知事を解任、社倉の負担割合も軽減され、免除される者も出ました。また、その後の廃藩置県(明治4年)で品川県が廃止されると、社倉政策は2年で終了し、徴集された積立金は、地域差はあるものの、村々に返還されました。

これらは、一連の訴願運動の成果と言えますが、多くの負傷者を出し、宿預けの経費などの負担も重かったため、残された子孫にとっては誇ることのできない、凄惨な事件となりました。

御門訴事件を伝える紙芝居

この事件を後世に伝えるため、近年様々な活動や研究成果が発表されていますが、この度、西東京市図書館に事件を題材に制作された紙芝居が寄贈されました。昭和51年度在籍の保谷小学校児童と担任が制作し、これまで事件の舞台である真蔵院(小金井市)*⁹ で長く保管されてきました。

もうすぐ事件が起こった年の暮れがやってきます。この機会にぜひ、寄贈された紙芝居を借りてご覧ください。

御門訴物語 紙芝居
紙芝居について、詳しくはこちらのページをご覧ください。

本文中の注釈

 この地域を含む武蔵野新田(82か村)は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の享保の改革の一つとして行われた新田開発により拓かれた村々ですが、古田(こでん)に比べて地味が悪く、肥料なしでは作物の育たない痩せた土地だったため、押立村(現在の府中市域)の名主川崎平右衛門(かわさきへいえもん)によって築かれた「畑養料(はたけやしないりょう)制度」によって、なんとか生産活動を維持してきました。これは、幕府からの出資金を新田外の村々に貸し付けて増やし、それを武蔵野新田の農民らに肥料(代)として割り渡す代わりに、一律で一軒あたり3升の雑穀を拠出させ、各村の名主の管理の下に貯えるという仕組みでした。品川県は、社倉政策の通達と同時にこの制度の廃止も通知しました。[戻る]


 具体的には、下記の村が含まれます。[戻る]

村落 現市域 名主 改革組合村
田無村(途中離脱) 西東京市 下田半兵衛 田無宿組合
上保谷新田 西東京市(現在の新町辺り) 平井伊左衛門 田無宿組合田無宿組合
関前新田 武蔵野市 井口忠左衛門 田無宿組合
梶野新田 小金井市 梶野藤三郎 田無宿組合
関野新田 小金井市 島田清十郎 田無宿組合
鈴木新田 小平市 鈴木利左衛門 田無宿組合
大沼田新田 小平市 当麻弥左衛門 田無宿組合田無宿組合
野中新田(与右衛門組) 小平市 高橋定右衛門 田無宿組合
野中新田(善左衛門組) 小平市 野中弥一郎 田無宿組合
野中新田(六左衛門組) 国分寺市 関田安五郎 田無宿組合
戸倉新田 国分寺市 戸倉市三郎 田無宿組合
内藤新田 国分寺市 内藤治助 田無宿組合
柳窪新田 東久留米市 秋田惣次郎 田無宿組合


 田無村が抗議運動からの離脱を決断した背景については、『御門訴事件と下田半兵衛-名主として、寄場惣代として-』(下記参考文献)の他、下記のページでも詳しく紹介されています。[戻る]

「農民とサムライのあいだ-江戸時代の暮らしと田無村名主・下田半兵衛-」(行田健晃/文責)


*⁴ 田無村離脱を受け、残りの12か村は訴願達成のために団結を誓い合うための議定書「取極申議定ノ事(とりきめもうすぎじょうのこと)」を取り交わします。その内容は次の4点です。[戻る]

  • 社倉積立免除のために、何度でも訴願を行うこと。
  • 訴願の費用は各村高に応じて負担すること。
  • 団結維持のため、単独行動は取らないこと。どんな事態になっても仲間を裏切らないこと。
  • 以上の約束は、訴願達成までの間絶対に破らないこと。


*⁵ 「宿預け」とは、費用は自分持ちで監視付きの指定旅館に抑留することを言います。この費用は各村で負担することとされました。[戻る]


*⁶ 「門訴」とは近世の百姓一揆などにみられる訴願の一つの形態で、大勢の者が、領主の屋敷などの門前に押しかけて訴えることを言います。屋敷内になだれ込むと「強訴(ごうそ)」となり厳しく処罰されました。[戻る]


*⁷ 農民たちが門訴のために歩いた道筋は、『御門訴事件を伝える活動の記録』(下記参考文献、p.52)で詳しく紹介されています。[戻る]


*⁸ 具体的には下記の人物が亡くなりました。[戻る]

  • 高橋定右衛門(享年60歳)…野中新田与右衛門組名主で、訴願運動の発起人。
  • 井口忠左衛門(享年59歳)…関前新田名主で、訴願運動の中心人物。
  • 井口庄司(享年37歳)…忠左衛門の息子で、門訴の若手指導者。
  • 野口甚平(享年不詳)…上保谷新田の農民。
  • 桜井国蔵(享年48歳)…上保谷新田の農民。門訴参加時、兄の元右衛門をかばうつもりで所持していた鎌で県庁役人を負傷させたため、後日の取締で指名手配される。家宅捜索時に役人が家中に槍を突き刺し回り、その時の傷痕が残った長持ちは、現在市内の郷土資料室で展示されています。
  • 高杉六兵衛(享年32歳)…内藤新田年寄。


*⁹ 真蔵院には「畑養料制度」を築いた川崎平右衛門の供養塔が建立されており、12か村の団結を誓い合う議定書作成の際や、門訴実行決議の際に、度々このお寺が農民たちの拠り所となりました。[戻る]

参考文献一覧 [戻る]

御門訴事件を伝える活動の記録』(御門訴事件を伝える活動の記録編集委員会/編、2023年7月)

御門訴事件と幕末維新期の多摩支配-近世的な訴願と近代的な支配の衝突-」(行田健晃/著、『多摩地域史研究会第33回大会発表要旨』所収論文、2025年6月)

御門訴事件と下田半兵衛-名主として、寄場惣代として-」(行田健晃/著、『多摩地域史研究会会報第158号』所収論文、2024年1月)

御門訴物語-上保谷新田と農民たち-』(粟野美紀子/文、1976年3月)