「西東京『水』飲み噺―江戸時代の田無・保谷と用水」

西東京市の歴史を学術的に研究した行田 健晃氏が、江戸時代の田無・保谷地域の「水」に関する文書をまとめてくださいました。
 

「西東京『水』飲み噺―江戸時代の田無・保谷と用水」
                        講演者・文責 行田 健晃

皆さんは、「玉川兄弟」を知っているでしょうか。

小学校時代を東京都で過ごした方は、その名を聞いたことがあるのではないかと思います。江戸時代のはじめごろ、海が近くて飲み水がほとんど取れなかった江戸に、多摩川から水を引き、飲み水を届けるための水路、「玉川上水」を作ったとされる人たちです。彼らの引いた玉川上水によって江戸の飲み水をめぐる状況は大きく改善し、江戸は日本第一の都市へと成長していくことになります。

ではこの時代、現在の西東京市はどのような様子だったでしょうか。

今西東京市がある場所には、江戸時代には田無村、上保谷村、下保谷村といくつかの新田集落があり、農民が住んでいました。ここで重要なのが、田無・保谷は、「江戸」の中には含まれていないということです。つまり、最初に述べた「江戸の水不足」の改善の話と田無村や上下保谷村の水の話は分けて考えなければならないのです。これを踏まえて、江戸時代の田無・保谷の水事情はどうであっただろう?というのが、今回のお話です。

講演では、特に田無の話を中心に取り上げました。
この地域は江戸時代、水が豊富にあったわけではありませんでした。その様子は「田無」という地名にも表れています。今の谷戸地域など、いくつかの地域で湧き水が手に入ったようですが、現在も残る青梅街道沿いの地域では水はほとんどとれず、生活に困っていた人が大勢いたようです。

青梅街道は、古くは家を建てる際に壁などに用いる石灰を今の青梅あたりから運ぶための道として利用されており、江戸時代を通して武士や多くの人々がこの道を利用していました。江戸時代の農民の仕事としては年貢をおさめることがよく知られていますが、その他に「武士が仕事などで大きな道を通るとき、彼らが使う馬の用意や荷物運びは、農民が行う」というものがあったため、こうした水のない地域にも農民たちは住まなければならなかったのです。

さて、水が不足しているこの地域の人々は、どのようにして水を手に入れたのでしょうか。

その答えは、「玉川上水から水を引いてくる」というものでした。多摩川から飲み水を取るために江戸へ引いた玉川上水から、さらに水を引くのです。

玉川上水ができて間もなく、いくつか分水が行われました。田無は1700年ごろに分水が通り、1710年以降には田無・保谷を含む北多摩地域が「江戸向けの野菜を作る土地」として盛んに開発されるようになったため、さらに多くの地域で取水が許可されていきました。田無地域は田無分水、保谷地域は関野分水を利用していました。人々は水門を設置して取水量を調整し、水道管にあたる木樋(もくひ)を作って、上手に水を村まで引いていきました。

ただし、この水は本来、江戸の人々が使うためのものでしたから、タダでは使えませんでした。「水道料金」が発生したのです。1年あたり1両で、これは村ごとに払う決まりでした。江戸時代のお金の価値は時代や場所によって変わるものでしたが、江戸時代初期の1両は現在の価値にしておよそ10万円くらいに、中・後期の1両は4~6万円くらいになったと考えられています。

また、使う水の量に関係なく1村あたり年1両と決められていました。現在の水道料金とは少し様子が違いますが、ともかくこの地域の人々にとって水はタダではなかったのです。

この水によって、田無・保谷地域の人々の暮らしは豊かなものになりました。

幕末の時期に田無村に残る史料を見てみると、この地では大麦・小麦のほかにそばや大根、いもなども栽培されていたようです。

また、飲み水や農業用水としてだけでなく、流れる水が持つ動力も有効に活用されました。用水に水車をかけて水の力で動かし、精米したり、小麦を挽いて小麦粉にしたりしていたのです。

田無・保谷にはお祝い事の時などにうどんを食べる風習がありましたが、うどんの原料となる小麦粉を作るためには、水車の力が必要でした。そして、こうした食べ物は、青梅街道を往来する人々にも売られるようになり、青梅街道沿いでは商売が繁盛しました。

半兵衛の水車の記録 安永9年(1780)/表紙田無村にあった水車の記録 安永9年(1780)/表紙

一方で、水車を設置したことによるトラブルもありました。

上保谷新田は19世紀前半、水車を作るために関野分水の流れる道筋を勝手に変更し、下流にある関前新田と二度も裁判になっています。川はつながっているため、上流の村が川に何かしら手を加えると、下流の村に大きな影響が及ぶのです。この時の裁判では、いずれも関前新田に水が流れなくなったことが重く見られ、設置された水車は取り払われました。

このようなトラブルもありましたが、玉川上水からの分水によって、田無や保谷を含む北多摩の人々の生活は安定し、人口も増えました。

ところが、人口が増え分水が多くなったことで、また別の問題が発生しました。

それは、「江戸に届く水の量が少なくなってしまう」というものです。1770年頃の幕府の調査によると、羽村で玉川上水に流れ込んだ水は、江戸に届くまでに半分以下の量になっていました。玉川上水が運ぶ水の多くが、分水を利用する村々によって消費されていたのです。

この状況を見た幕府は、玉川上水の分水を利用する村々に対して水門を「三分明け」にするように命じました。水門の開け具合を全開時の30%にすることで、取水量を大きく制限したのです。

そして、こうした制限は幕末に大問題へと発展します。

安政3年(1856)4月に玉川上水の水量が減ると、幕府は上水沿いの村々に水門の「二分明け」を命じました。三分明けであった水門をさらに閉じるように命じたのです。

このとき、多くの人口を抱えていた田無村は水不足による生活の危機におちいりました。

そこで田無村の名主(名主とはその村の責任者、トップのこと。)である下田半兵衛は、水門を元の三分明けに戻すよう、幕府に願い書きを出しました。

名主・下田半兵衛の名前で出された水門三分明けの願い書き(清書) 
名主・下田半兵衛の名前で出された水門三分明けの願い書き(清書) 
安政3年(1856)/冒頭

西東京市中央図書館には、その願い書きの清書と、下書きの史料の紙焼きが保管されており、村の責任者が願い書きを書くときにどのような部分の記述を重視していたのかがよくわかります。

最終的に、この願いは聞き届けられました。

2か月後の6月には幕府よりいったん三分明けに戻すことが許可され、その2年後には三分明けの状態を当面の間維持することが許可されています。

このように、江戸の飲み水を確保するために引かれた玉川上水は、田無・保谷の人々の暮らしも豊かにしていました。

そして、私たちは彼らが書き残した物をもとに、江戸時代の田無・保谷の人々がどのように生活していたのか、また水をめぐってどのように動いたのかについて、知ることができるのです。

もっと学びたい人のための参考文献

『玉川上水と分水 新訂増補版』

『江戸上水道の歴史』

『百姓たちの水資源戦争-江戸時代の水争いを追う-』

講演会詳細

テーマ:子どものための地域を知る講演会「西東京市『水』飲み噺ー江戸時代の田無・保谷と用水」
日時:令和元年8月18日(木)午後2時~4時
場所:谷戸公民館 講座室
講師:行田 健晃氏(講師の著作一覧
(徳川記念財団 非常勤研究員/中央大学付属横浜中学校・高等学校 社会科兼任講師)