田無・保谷の都営住宅

戦後の住宅難と都営住宅の設立

戦災による住宅難の中、都は「東京都営住宅使用条例」(昭和21年2月)を公布し、応急簡易住宅の建設や既存建物の転用等により、区部を中心に都営住宅政策を開始します。

田無町・保谷町ではじめて建設された都営住宅は、それぞれ昭和26年の田無第4住宅(現在の田無谷戸二丁目アパート)、昭和23年の保谷住宅(現在の柳沢二丁目アパート)です。

目下の住宅不足解消のため、当初の条文に入居の資格要件(収入基準等)は明記されていません。現在のような「公営住宅」としての役割がはっきりするのは、「公営住宅法」(昭和26年6月)が公布され、都の条例が全文改正(同年9月)されてからです。

高度経済成長期に入り、田無・保谷の人口は急増します。この時期に都営住宅の建設はピークを迎え、昭和45年までに田無市で26か所(1806戸)、保谷市で41か所(1589戸)建設されました。

都営田無第9住宅の写真
都営田無第9住宅(昭和35年、現・西原町一丁目アパート) 

都営田無第18住宅の給水塔
都営田無第18住宅の給水塔(昭和35年、現・田無本町七丁目アパート)

都営住宅での暮らし

建設された住宅は、一部の簡易耐火構造(1~2階)を除き、ほとんどが木造の平屋でした。一戸建てで建坪は10坪程度、主流は2Kで浴室はついていません。都営住宅に浴室が設置されるようになるのは昭和36年以降であり、住人は近くの銭湯に通いました。

建設当初の住宅の間取りを見る(『田無市史 第4巻民俗編』)

居住者を悩ませたのが水問題です。田無町、保谷町とも町営水道が引かれたのは昭和38年で、少なくともそれまでの間は住宅ごとに水を賄(まかな)う必要がありました。地下水を給水塔に汲み上げ各家庭に配水し、不足分は井戸で補うところもありましたが、停電による断水、渇水、井戸水の衛生面での問題等、今のように手軽にきれいな水を得ることは困難でした。

田無町の水問題(『田無市史 第3巻通史編』) 保谷町の水問題(『保谷市史 通史編3近現代』)

住宅難や人口増加を背景に都営住宅への応募が殺到しましたが、入居できたとしても居住に不満がなかったわけではありません。住宅の狭さ、日照や通風等衛生上の不便、家賃の高さや建物の老朽化に対し対策を求める声は多くありました。

入居予定者決定のための抽選会の様子
入居予定者決定のための抽選会の様子(昭和62年、保谷市)

都営住宅の建替事業

都市の不燃化、土地の有効利用、居住者の暮らしの質向上のため、都は木造平屋を中心とした住宅の建替えを開始します。田無市では昭和45年(田無芝久保一丁目アパート)、保谷市では昭和55年(柳沢二丁目アパート)以降、平成の初め頃まで続きました。

建替え後は中層化し、耐震構造の鉄筋コンクリートで、建坪は20~23坪程度、間取りもダイニングルーム付きの近代的なものへと変化します。浴室の給排気は、煙突からバランス釜に変わり、高齢者を含む世帯向けに老人室のついた住宅もあらわれます。

建替え後の住宅の間取りを見る(『田無市史 第4巻民俗編』)

建替えで生じたスペースには、公園や子どもの遊び場、保育園等の公共施設が設けられました。図書館もその一つで、芝久保・谷戸・柳沢・ひばりが丘の4館は、それぞれ都営住宅に併設されています。

都営田無第2住宅の取り壊し現場の写真
都営田無第2住宅の取り壊し現場(昭和51年、現・田無本町四丁目アパート)

都営住宅の建替えの写真
都営保谷住宅の建替え(昭和60年頃、現・柳沢二丁目アパート)

田無・保谷の都営住宅一覧(建替え前後対照表)


都営住宅一覧(田無・保谷).pdf(PDF:108KB)

参考資料一覧(※は都立図書館所蔵資料)

※『住宅30年史 住宅局事業のあゆみ』(東京都住宅局/編、1978年)

※『都営住宅建設の歩み 1945-61』(東京都住宅局/編、1962年)

※『東京都営住宅一覧』(東京都住宅局(東京都住宅政策本部)/編)

※『都営住宅分布図』(東京都住宅局/編、1970年)

※『東京都公報(東京都警視庁公報)』より「東京都営住宅使用条例」(昭和21年2月施行、昭和23年2月全文改正、昭和26年9月全文改正)

※「東京都営住宅条例」(平成9年10月全文改正、令和4年11月1日施行)

田無市史 第3巻 通史編

田無市史 第4巻 民俗編

保谷市史 通史編3 近現代

写真で見る わがまち西東京-懐かしのふるさと150年

田無・保谷の「都営住宅」に関する新聞記事(図書館ホームページ「新聞記事検索」検索結果一覧)