「とびだせ 田無・保谷の村―江戸時代の生活とつながる人々」

「とびだせ 田無・保谷の村―江戸時代の生活とつながる人々」

講演者・文責 行田 健晃(成蹊中学・高等学校専任教諭/西東京市文化財保護審議会委員)

江戸時代の人々の生活にせまる

皆さんは、「江戸時代の生活」という言葉を聞いて、どのようなことをイメージしますか。年貢、五人組、貧しい、自給自足…いろいろな言葉が浮かぶと思いますが、実際のところ、私たちはどうやって昔の生活の様子を知ることができるのでしょうか。

この問いに対する答えの一つは、「当時の人たちが書き残したものを読むこと」です。歴史を勉強する人たちはこれを「史料」と呼びます。史料を読むことで、ときにイメージと異なる人々の姿に気づくことができます。今回の講演では、一村で完結するイメージの強い江戸時代の村の生活に対して、あえて村をこえた人々の動きにスポットを当て、江戸時代の人々の生活について学びを深めていきました。

江戸時代の村人たちの活動が村の中で完結することが今よりも多かったことは事実ですが、江戸時代の人々の活動の中には、村の外とのつながりを持つ活動も多く含まれました。その一つが旅行です。ここでは、日帰りができる近場の旅行として「花見」を、日にちのかかる遠出の旅行として「お伊勢参り」を取り上げます。

村を「とびだす」人々①―花見をする人々―

まず、江戸時代における近場の旅行の代表として挙げられるのが、春に行われる「花見」です。多摩の人々の間でも評判だったのが、玉川上水沿いに咲く桜でした。18世紀、多摩の新田開発に功があったことで有名な川崎平右衛門によって上水沿いに植えられた桜は、多摩のみならず、江戸の人々にも親しまれました。特に出色だったのは現在の小金井市あたりに植えられた桜で、「小金井桜」と呼ばれ、名所になりました。

ただ、有名になって観光客が増えると、トラブルが起きるのはいつの時代も変わらないようです。19世紀の中ごろには、境村(現・武蔵野市)の人々によって、桜の枝を折り、それを持ち帰ったり売り買いしたりする人々がいることが代官に報告されています。この影響もあって、嘉永2(1849)年に、当時の代官が村人に対して桜の一斉植え替えを指示しました。このとき、村人の代表を務めたのが、この地域全体のリーダーでもあった田無村名主・下田半兵衛であり、この植え替えには周辺七か村(上保谷新田、境新田、関野新田、是政新田、鈴木新田、廻田新田、小川新田)の村人たちが参加しました。

この時に石碑が立てられ、植え替えの事実を記録するとともに、その裏側には「桜折(る)べからず」という警告が刻まれました(この石碑は今も玉川上水沿いに「桜樹接種碑」、またの名を「桜折るべからずの碑」として残っています)。花見の事例からは、花見をするために村から出かけて行く人々を確認できるとともに、その場所を維持するために、周辺の村人たちが村をこえて協力している様子を見ることができます。

村を「とびだす」人々②―遠出をする人々―

遠出の旅行について、田無・保谷の人々が参加した記録としては、富士山への旅行と伊勢神宮への旅行が残っています(富士山への旅行記録は、武蔵野市が所管する古文書の中に残っています)。ここでは、西東京市に残る、下保谷村の人々による伊勢神宮への旅行記録について述べたいと思います。

伊勢神宮への旅行は「お伊勢参り」と呼ばれ、村人たちのあこがれの旅行の一つでした。ただし、当時の旅行のスタイルは、現在のような家族旅行とはいくつかの点で異なっていました。一つは参加者の規模です。江戸時代に遠出をする場合には、村をこえた大人数で旅行をします。今回紹介する嘉永元(1848)1月の旅行では、飛び入りも含め、総勢41人による旅行でしたが、下保谷村以外の人も参加するところに大きな特徴があります。ほかに、上保谷村や、南沢村(現・東久留米市)などに住む人々がこの旅行に参加していました。

もう一つは、「通行手形」の存在です。江戸時代は、軍事上の理由などから人々の往来を制限する関所が設けられていましたが、ここを通行するために、村の名主が発行する「通行手形」が必要でした(下保谷村のモノではありませんが、箱根関所資料館で、当時の通行手形のレプリカを購入できます)。嘉永元年の旅行では、下保谷から伊勢神宮まで行くために東海道を通っていたため、箱根の関所を通過する必要がありました。下保谷の記録としては残っていませんが、この際に、下保谷村の名主が発行した通行手形を提出したものと思われます。正当な理由があれば、村人は関所を通過することが可能だったのです。

さて、この旅行の日程ですが、以下のような詳細な足取りがわかっています。


作成者:行田健晃

この行程もまた、村人たちが残した記録から組み上げたものです。お伊勢参りの際には、どこで何にお金を使ったかが細かく記録されたため、この記録をたどれば旅の詳しい様子が再現できるのです。

なぜこのような記録を残す必要があるのかといえば、それはこの旅行が「参加者みんなで少しずつお金を積み立てて旅行に行く」というスタイルをとったためです。4年以上の時間をかけて参加者たちが積み上げたお金で旅行をしたため、誰かが不正にお金を使うことがないようにこのような記録を残す必要がありました。

こうした、集団でお金を積み立てる仕組みのことを「講(こう)」と呼び、お伊勢参りのための講を「伊勢講」と呼びます。「講」は、もとは信仰をともにする集団を意味する言葉であり、お伊勢参りも信仰に基づく、いわば「聖地めぐり」としての側面が強かったのですが、その道中では必ずしも本来の目的に沿わない、物見遊山としての旅行も楽しんでいたようです。このように、遠出の旅行の様子を見てみると、これらの動きが村をこえたつながりに支えられていることがわかります。

江戸時代の旅行を下支えした本

そして、これらの「旅行」のガイドとして重要な役割を果たしたのが「本」です。江戸時代になると、木版印刷の技術が大きく進展したことで、本が様々な人々に読まれるようになりました。小金井桜が有名になった背景には『武野八景』などといった武蔵野の名所を紹介する本の影響などがあります。『伊勢参宮名所図会』という本も出版されており、お伊勢参りをする人々が参考にしたものと考えられます。

ただし、現在のように一人一人が個別に本を買うほどの余裕は当時の村人にはなかったため、一冊の本を貸し合ったり、書き写して「写本」をつくったりしながら知識を蓄えました。こうした、旅行を下支えした書物の文化にも、人々のつながりを感じることができます。

村をとびだす人々③―引っ越しをする人々

これまで紹介したほかにも、実際には江戸時代には様々な場面で村をこえた交流がありました。そのことを示す事例として、「引っ越し」の事例を挙げたいと思います。江戸時代の村人は、村内の耕地で農業をする生活が基本のため、一生を村の中で終えるイメージがある人もいるかもしれません。確かにそのようなケースは多いですが、中には他村へ引っ越しをする人々もいました。

引っ越しをする人々の様子は、引っ越しの際に移動元から移動先へ発行される「人別送り」という史料を通して把握することができます。


下保谷村に残る人別送りの例:
『覚(田無村より入嫁に付送り状)』 万延元(1860)閏3月

人別送りには様々な形式がありますが、おおよそ移動する人の名前・性別・年齢・移動した年月、移動前の村、移動先の村、移動理由などが記載されており、引っ越しの様子の一部をつかむことができます(欠損や紛失などもあって、すべての移動を完全に把握することはできません)。田無村を例にとると、嘉永2(1847)年~元治元(1864)年の間に28件32人が他村へ引っ越し、14件16人が他村から田無村に引っ越してきています(年月日不明のものを含む)。田無村の人口は1640人(1864年)のため、数としては少ないですが、確かに他村へ出ていったり、他村から入ってきたりする人々の存在が認められます。

おおよその傾向として、田無村(および、多摩地域の村)の人々の引っ越しには、次のような特徴があります。移動の理由として最も多いのが結婚であり、親戚関係の成立を伴う養子による移動も含めるとこの二つで理由のほとんどを占めます。現代に多い、転勤に伴う引っ越しは極めて少数です。移動者の年齢で最も多い年代は20代ですが、それは移動の理由に影響を受けていると考えられます。

また、移動の状況を見てみると、全体の実に80%以上が半径2里(約8㎞)以内におさまり、移動の範囲が今よりずっと狭いことがわかります。当時の結婚は、現在のような純粋な恋愛結婚ではなく、家と家同士の取り決めによるものがほとんどでした。結婚による人の移動は、村をこえた家同士の結びつきを示すものと考えることができます。

特徴的な事例として、下赤塚村(現練馬区)から引っ越してきた藤七の例を紹介しましょう。藤七は元治元(1864)年5月22日に田無村に引っ越してきて、5日後の5月27日に下練馬村(現練馬区)に引っ越していくという、珍しい経緯を持つ人物です。人別送りによれば、藤七は病弱のため、弟が家を継ぐことになった結果、生まれた家を出ることになりました。しかし、この時点で養子の貰い先が決まっていなかったので、近隣の上保谷新田の名主・伊左衛門、下石神井村の住民・勝右衛門の仲介によって、田無村名主の下田半兵衛のもとに一時的に引き取られました。

当時は、血のつながりのない人物が同じ家に住むことが当たり前に行われており、下田半兵衛は地域随一の実力者であったため、このようなことを引き受けたのだと考えられます。そして、5日後、同じく伊左衛門のはからいで養子の貰い先が決まったことにより、藤七は下練馬村の村人の家に引っ越していきました。藤七が、人生の最も重要な時期を、周囲の人々のつながりに支えられる形で過ごしていたことが、記録からわかります。

史料から「とびだす」人々のすがた

今回の講演では、人々が村を「とびだす」事例について多く取り扱いましたが、これらの事例を丁寧に見ていくと、その背後に、多くの人との「つながり」を見出すことができます。江戸時代の人々は村内での生活においてのみならず、村の外に「とびだす」ような場合においても、多くの人とつながって活動をしていたのです。

そして、そうした史料を読み込んだ先に映るのは、一絡げにまとめられた「村人」という記号ではない、その時代を生き生きと過ごしていた人間たちのすがたです。花見に興じる人々、桜を植え替える人々、旅行のための資金を積み立てあう人々、旅の記録を丁寧につける人々、箱根の関所を通過する人々、本を貸し合う人々、結婚のため、養子に行くために家を引っ越していく人々…こうした史料の検討を通して、当時の人々の生活が、目の前に「とびだし」てくるような感覚を、私たちはつかむことができるのです。歴史を学ぶことの面白さはきっと、そんなところにあるのだと私は感じています。

参考文献一覧

◎古文書類
  • 西東京市中央図書館所蔵「下田家文書」(田無村)/同「蓮見家文書」(下保谷村)
  • 武蔵野市ふるさと歴史館所蔵「平野家文書」/同館保管「秋本家文書」
  • 嘉永五年正月「奉差上手形之事(関所手形)」(原本郵政博物館蔵・市販のレプリカを使用)
  • 蔀関月編『伊勢参宮名所図会一』(出版者不明)、1797年
  • 斎藤月岑著・長谷川雪旦画『江戸名所図会十五』(出版社不明)、1836年
◎拙稿
  • 「田のない村と武士になった村長さん」(西東京市中央図書館「子どものための地域を知る講演会」2018年)
  • 「西東京『水』飲み噺」(西東京市中央図書館「子どものための地域を知る講演会」2019年)
  • 「ふるさとむかし探訪」(西東京市中央公民館『公民館だより』第229号~231号、2020年)
  • 「農民とサムライのあいだ」(西東京市中央図書館「子どものための地域を知る講演会」2022年)
  • 「タイムトラベル武蔵野」(武蔵野市武蔵野ふるさと歴史館「武蔵野地域探究」関連講演、2022年)
◎その他主要参考文献
  • 下田富宅『公用分例略記』(東京書房、1966年)
  • 萩原竜夫「伊勢詣で」(『国史大辞典』第1巻、吉川弘文館、1979年)
  • 岩科小一郎『富士講の歴史』(名著出版、1983年)
  • 保谷市史編さん委員会『保谷市史資料編2 近世2』(保谷市、1986年)
  • 保谷市史編さん委員会『保谷市史通史編2 古代・中世・近世』(保谷市、1988年)
  • 『新編埼玉県史図録』(埼玉県、1993年)
  • 田無市史編さん委員会『田無市史第一巻中世・近世史料編』(田無市、1993年)
  • 田無市史編さん委員会『田無市史第三巻通史編』(田無市、1995年)
  • 尾藤正英『江戸時代とは何か』(岩波書店、2006年)
  • 小金井市史編さん委員会編『小金井市史資料編小金井桜』(小金井市、2009年)
  • 深谷克己『深谷克己近世史論集第1巻民間社会と百姓成立』(校倉書房、2009年)
  • 白川部達夫・山本英二編『“江戸”の人と身分〈2〉村の身分と由緒』(吉川弘文館、2010年)
  • 滑川邦夫『江戸時代末期における田無村と近村の関係』(2013年)
  • 滑川邦夫『幕末期における下保谷村と近村との関係』(2013年)
  • 広瀬裕之「桜樹接種碑考―小金井桜と下田半兵衛・賀陽玄雪の書―」(武蔵野大学教職センター編『武蔵野
  • 大学教職センター紀要第二号』、2013年)
  • 渡辺尚志『百姓の力』(KADOKAWA、2015年)
  • 德川記念財団・東京都江戸東京博物館編『企画展徳川将軍家へようこそ』(德川記念財団、2017年)
  • 日本銀行金融研究所貨幣博物館HP「お金に関するFAQ」(最終閲覧2023年8月18日)
  • 武蔵野ふるさと歴史館編『武蔵野地域探究』(武蔵野ふるさと歴史館、2022年)

講演会詳細

子どものための地域を知る講演会「とびだせ 田無・保谷の村―江戸時代の生活とつながる人々」
日時:令和5年8月19日(土曜日)午後2時から4時
場所:田無公民館 視聴覚室
講師:行田健晃(ぎょうだ・たけあき)さん(講師の著作一覧
   (成蹊中学・高等学校専任教諭/西東京市文化財保護審議会委員)

講演会当日の様子はこちらからご覧いただけます。