田無にあったヤマ

図書館所蔵の大型郷土紙芝居(全8作)の一つに、向台にまつわる『たぬき山ときつね山』があります。今回はそのお話の舞台となった「きつね山」について紹介します。

紙芝居動画『たぬき山ときつね山』を見る

田無のお話に登場する「きつね山」

『たぬき山ときつね山』は、男の子が、化かし合いをするタヌキやキツネと向台の山で遊ぶお話です。この他にも、「キツネの嫁入りに招かれた五郎吉」や「狐山で寝た半六」等、きつね山に迷い込んだ男が狐にたぶらかされるというお話があります(『田無宿風土記 三』)。それらには、きつね山は現在の南町や向台町の石神井川沿いにあったと書かれています。

田無にあったヤマ

それでは、向台地区(現在の南町から向台町)の石神井川沿いには本当に山があったのでしょうか。実際に向台の地を歩いてみると、石神井川を起点に高低差はあるものの、そこに山があったとは感じにくいかもしれません。

それでも「きつね山」は実際にありました。ここでいう「ヤマ」とは、実は平地林(雑木林)のことを指し、戦前の田無には谷戸から西原にかけての一帯(「谷戸山」や「クラミ山」と呼称)や、向台地区の石神井川沿いにまとまりをもって広がっていました。向台の一帯はうっそうとしたくぬぎの林で、キツネやムジナが生息していたため、「くぬぎ山」や「きつね山(たぬき山)」と呼ばれていました。


石神井川沿いの雑木林(現・南町の富士見橋付近、昭和35年頃)

「田無村絵図」(天保14年)で、当時の土地利用の様子を見る

ヤマは子どもたちの恰好(かっこう)の遊び場でした。夏は昼間でも薄暗いほどナラやクヌギが生い茂り、その無気味さが子どもたちの冒険心を駆り立て、カブトムシやクワガタもたくさん捕れました。

また、ヤマは農家の生産活動においても貴重な資源でした。ヤマがあれば、拓(ひら)いて畑にしたり、落ち葉を堆肥に用いたりすることができました。落ち葉や松ぼっくりは煮炊きや風呂焚きの燃料にもなり、木々は新屋(にいや)の建築材になりました。明治期の田無でヤマを所有していた農家はわずかでしたが、そうでない農家は、道路の落ち葉等を掃き集め、堆肥や薪をまかなっていました。

そんなヤマも、日が暮れれば別世界。真っ暗で、大人でも恐ろしくて立ち入らなかったといいます。ヤマの細道には追いはぎが出て金品を奪われることがよくあり、妖怪がでるなんて噂もあったそうです。

戦後の宅地開発と消えてゆくヤマ

しかし、戦後の人口急増を背景とした宅地化の進展に伴い、田無のヤマは徐々にその姿を消してゆきます。

現在では、西原自然公園や東大農場・演習林等を残すのみとなりましたが、「西原自然公園を育成する会」や「東大農場・演習林の存続を願う会」等の市民の活動によって、そこにかつての面影を見ることができるのです。

参考資料

田無市史 第3巻 通史編

田無市史 第4巻 民族編

田無宿風土記 三

田無のむかし話 その1 田無の年中行事を中心に(四版)

田無のむかし話 その3 明治末期から大正初期にかけての青梅街道の町並み(四版)

たなし郷土かるた(2版)

西東京市地域生活環境指標 平成23年度版

たぬき山ときつね山(地域・行政資料大型紙芝居 5)』(「西東京市デジタルアーカイブ」のページへ)

西原自然公園を育成する会」(所蔵資料一覧)

東大農場・演習林の存続を願う会」(所蔵資料一覧)

*こちらのページは、『図書館だより』(89号)掲載の「にんにん西東京」(第35回)を、様々なコンテンツで楽しめるように作成したものです。