鷹場

「図書館だより 第74号」に掲載した記事と同じ内容です。

鷹狩り(鷹野(たかの)(ほう)(よう))は、狩猟民族の間で始まり、飼い慣らした鷹を使って鳥獣を捕らえる方法で、古代に大陸から伝わり、支配者の特権的遊猟として朝廷、中央貴族によって行われ、中世以降、武家の間に広がりました。

寛永5年(1628)、幕府は「江戸近郊鷹場法度」を制定し江戸からおよそ5里四方を将軍家鷹場(御拳場(おこぶしば))とし、独占する放鷹権を有力大名や重臣に特権として許し鷹場を貸し与えました。
尾張徳川家は、寛永10年(1633)、紀伊・水戸両家と共に鷹場を拝領しました。北は荒川、南は多摩川、西は現在の瑞穂町付近までの広大な範囲でした。その後、元禄6年(1693)、 
五代将軍綱吉の生類(しょうるい)(あわ)れみ政策により鷹場は一時返納され、享保元年(1716)、八代将軍吉宗により再編されました。西東京市は、この尾州鷹場に位置し、「延宝6年(1678)御鷹場絵図」には、幕府鷹場の外側、156か村の中で、「田無・保谷・木榑(こぐれ)分六か村」として描かれています。
江戸戸山の尾張藩屋敷内御鷹方役所は、鷹匠(たかじょう)鷹場(たかば)吟味役(ぎんみやく)(とり)()(田無村、下保谷村に陣屋あり)・(たか)目付(めつけ)等の役人を配置し支配しました。田無村の有力農民下田孫右衛門が御鷹場御預御案内に任じられ周辺26か村を預かりました。

尾州鷹場の周辺には境界を示す83本の石杭が建てられました。宝暦3年(1753)「御定杭書上帳」には、下田孫右衛門預かり村として26本あり、上保谷村には9本の境杭がありました。そのうちの5本が、現在、市指定文化財第32号として残されています。

鷹場法度により村々は、殺生の厳禁、鳥の棲息に影響のある案山子や水車、建築、祭礼の鳴物等日常生活に多くの制約を受けました。
願書を元に許可を受け鑑札を戴き、禁止行為は厳罰に処されました。また、藩主の鷹野に際しても負担は重く、寛永21年(1644)の例では51か村1166人の人足が動員されました。
昨年、市内の旧家から尾張藩足軽の具足2領が発見されました。当地の者に預けておくことから「お貸し具足」とも呼ばれました。
慶応3年(1867)8月、混乱する幕末期に鷹場は廃止されました。

鷹場標杭

鷹匠とは鷹の飼育や訓練を行い、実際の鷹狩りに随行する鷹の取扱責任者です。西東京市には、かつて、NHKの大河ドラマで家康に扮した鷹匠と鷹がいました。現代の鷹匠として新聞等でも紹介された富田俊夫さんです。

富田さんは下町、日暮里生まれの江戸っ子。子どもの頃から無類の動物好き。15歳から勇壮な技に魅せられて鷹匠の弟子になり8年修行しました。その後、まだ鷹狩りが似合う場所だった旧田無市に移り鷹匠への道を歩き出しました。『東興通信』平成元年(1989)7月19日号によると、当時、イヌワシ、クマタカ、オオタカ、ハヤブサの4種類15羽を飼育。秋から春にかけ幼鳥を慣らし最低2ヶ月の訓練。
鷹狩りの期間は11月から2月、平地の藪を選ぶとのこと。「でも、鷹匠じゃ食べていけないよ、もう“将軍家おかかえ”なんてないもの」という言葉に時勢の変化と鳥たちへの愛情が伺えました。

図書館だより 第74号はこちらへ(PDF:2MB)

参考資料

田無市史 第1巻

田無市史 第3巻

保谷市史 通史編 2 古代・中世・近世

鷹場史料の読み方調べ方(古文書入門叢書 6)

西東京市古文書研究会年報-ファイル-ほか