田無の医療むかしむかし

「図書館だより 第73号」に掲載した記事に一部加筆しています。

文政6年(1823)、備前岡山藩の元侍医で、15年間江戸で「針科修行」を行っていた賀陽玄雪(片伊勢東仙)が田無村を訪れました。

医師の不在で困窮する村人を救うため、名主下田半兵衛(富永)は玄雪に村に留まるよう依頼し様々な援助を行いました。玄雪は家族を呼び寄せ、田無村に定住します。

その後、下田半兵衛(富宅)が名主を引き継ぐと、玄雪の子で長崎にも留学した玄順(済)や、福島道積などの医師を支援しています。

明治5年(1872)、「神仏判然(分離)の通達」によって田無村鎮守尉殿権現社が田無神社と改まり、吉備津宮神官の流をくむ賀陽玄順(済)は初代宮司となり、代々賀陽家は神職を引き継いでいます。 

明治の日本は、コレラ、痘瘡(トウソウ)、赤痢など急性伝染病の大流行がおこり、明治19年(1886)には15万人が亡くなりました。

当市域でも、幕末期の安政5年(1858)、文久2年(1862)にはコレラによる被害がありましたが、明治政府や町では防疫体制を確立するため、衛生行政を進めることとしました。

西洋医学は普及してきましたが、当初多くの人々は漢方医の診察を受けていました。

明治10年(1877)4月~11月の死亡診断書をもとに、病死者の年齢・病名をまとめると表のようになります。

病死者の年齢と病名(田無市史 第三巻 通史編』より)

年齢(歳) 病名
0~1   3 急驚風
1~4 1   (不明)
5~10 1   痰飲
10~20   2 血症、傷寒症
20~30 2   虚労水腫、肺癰
30~40      
40~50 1 1 肺労、血症
50~60 1 1 風毒、中風症
60~70   1 中風症
70歳以上 1   中風症
不明 1 1 虚労咳嗽、卒中風
8 9  

乳児の届出は行わないことがあり実際はこれより多かったかもしれません。

病名のうち、驚風(キョウフウ)は脳膜炎、傷寒(ショウカン)は急性の熱病、肺癰(ハイヨウ)は肺腫瘍、風毒(フウドク)・中風(チュウブウ)は脳卒中、咳嗽(ガイソウ)はせきのことです。

今は西東京市図書館で保存している田無市史編纂資料には数点の「診断書」が残されています。

医師の氏名や当時の住所が確認できるものもあります。

賀陽済、田中良伯、福島道積、小沢貞治郎、本橋養元、合田義和、また、久米川村・南秋津村(現東村山市)、野中新田(現小平市)、上連雀村(現三鷹市)の医師の名もあり、村内に限られていないことがわかります。

下の写真は、明治10年(1877)12月28日付の賀陽済医師による診断書です。

賀陽済医師による診断書 

明治43年(1910)刊行、『武蔵文庫百家明鑑』の記載には、佐々時達(内・外・小児・婦人・産・耳鼻咽喉科)、塚原知和岐(内科)、早川五郎(歯科口腔)、本橋直春(内・外・婦人・小児科)などの名前があり、専門ごとに医師が存在していたことが判ります。

古老の方々による座談会記録『田無のむかし話その3』には、早川五郎ではなく、「早川歯科分院 早川七郎先生」との記述があります。
 

図書館だより 第73号はこちらへ(PDF:849KB)

参考資料

田無市史 第3巻

武蔵文庫 百家明鑑

賀陽玄雪-賀陽家の系譜(寛政2年~嘉永7年)-

胃嚢録-京都大学附属図書館 富士川文庫所蔵・賀陽玄雪手写『胃嚢録』の解題と翻刻-

田無のむかし話3-明治末期から大正初期にかけての青梅街道の町並み-