令和4年度子どものための地域を知る講演会を開催しました!
- こども向けイベント
- 掲載日2022年9月21日
「農民とサムライのあいだー江戸時代の暮らしと田無村名主・下田半兵衛ー」
講演会情報
講師
行田 健晃(ぎょうだ・たけあき) さん(講師の著作一覧)
成蹊中学・高等学校 専任教諭(社会科/日本史)
西東京市文化財保護審議会委員
歴史学会 理事
開催日時
令和4年8月21日(日曜日)
午後2時から4時まで
会場
田無公民館 視聴覚室(3階)
成蹊中学・高等学校の専任教諭(社会科/日本史)であり、西東京市文化財保護審議会委員も務められる行田健晃(ぎょうだ・たけあき)さんをお招きし、子どものための地域を知る講演会を開催いたしました。コロナ禍で3年ぶりの開催となりましたが、小学生の皆さんをはじめ、参加者の方々が熱心に先生の話に耳を傾けられている姿が印象的でした。
講演会では、先生がご持参された『江戸名所図会』(本物)を目にして、会場が沸き立つ一幕もありました。
「古文書をひらいて初めて、当時を生きた人々の『声』を聴くことができる」という先生からのメッセージには、考えさせられた参加者の方々も多かったのではないでしょうか。
参加者の皆さまからのご質問・先生からのご回答
Q1
御門訴事件について、もっと知られてもよいのではないかと思います。農民がお上に反対して行動するという力があった、しかし残念ながら日本には庶民が戦い勝ち取ったということがなかった。この残念な歴史のわかりやすい場面だと思うので、多くの人に共有してほしいなと思います。
A1
この御門訴事件によって、社倉の負担が最終的に農民たちの要求した額にまで減らされていることを考えると、彼らの要求は通った・・・ということに一応はなるのですが、それに至るまでの犠牲が大きすぎて、とても「勝ち取った」というような状況とは思えないということろが正直なところだと思います。そこに、下田半兵衛の決断がもたらした分断が大きくクローズアップされた結果、語りづらい事件になってしまったのではないでしょうか。
この事件が悲惨なものになった最も大きな原因が、江戸時代と大きく変わってしまった役人の対応にあることを考えると、御門訴事件は事件の過程そのものだけでなく、事件の背景、古文書などの記録から察することのできる人々の思いも一緒に広く伝えていくことが大切だと感じています。
Q2
下田半兵衛富栄(とみひで)さんはなぜ名主を取り上げられていたのですか。幕府に取り上げられていたのでしょうか、明治の役人に取り上げられたのでしょうか。
A2
富栄さんは明治元年12月に名主の役を取り上げられているので、名主を取り上げたのは明治時代の役人、ということになります。この時期、田無村は韮山県と呼ばれる県の行政地域に入っていました。ただしこの県の知事は、江戸時代にこの地で代官を務めた江川太郎左衛門がそのまま務めていたので、「幕府はなくなっていたが、江戸時代にもその地を支配していた武士が名主を取り上げた」ということになるでしょうか。
また、名主を取り上げられた理由ですが、実は当時の文書には「不調法」(「過失、不始末」)によって名主を辞めさせられたとあるだけで、それが何だったのかを具体的に示す記録がどこにもないため、今のところ不明、ということになります。歴史学は、古文書などの記録に無い話を勝手に想像して補うことに対してとても厳しい学問なので、これ以上の答えを導けないところが、歴史の難しいところですね。
講演会当日の様子